大阪と与謝蕪村

現在の大阪市都島区に生まれ、俳諧中興の祖といわれる与謝蕪村の俳句に、菜の花や 月は東に 田ま西に、がある。
与謝蕪村は1716年(享保元)摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の裕福な農家に生まれる。
20歳頃、単身江戸へ出て、書画・漢詩文・俳諧などを学ぶ。
1737年(元文2)以降は早野巴人に入門し、江戸の俳壇で広く知られるようになる。
松尾芭蕉に憧れ、その足跡をたずね松島・象潟から奥州一円に及ぶ旅を試みた。
この時の手記をまとめた『寛保四年宇都宮歳旦帖』刊行の際に初めて蕪村の号を用いる。
その後丹後、讃岐などで、多くの絵画作品を残す。
40歳を過ぎてからは京都に落ち着いた。
「菜の花や…」は六甲山脈の摩耶山を訪れた際の句といわれる。
淀川左岸、毛馬閘門の上流側の堤上に蕪村生誕地碑がある。

江戸時代の中期、元禄時代(1688~1704)には大阪に置かれた各藩の蔵屋敷を介して商品流通が拡大し、経済活動が大きく発展したOこのような社会的状況を背景にして、京・大阪などの上方を中心にした新たな文化が興った。
それ以前の文化は、天皇を頂点とする公家層や僧侶、武家が中心であったが、新たな文化=元禄文化は、経済活動を担った裕福な町人層が中心となった。
貨幣商品経済の発展と封建制度の枠組みのもとで、町民的な感情と合理意識が表れていることが特色である。
井原西鶴の文芸、契抻による古典研究、芸術分野では尾がたこうりんおがたけんざんののむらにんせい形光琳、尾形乾山、野々村仁清などが活躍した。
また、義太夫節を始めた竹本義太夫が道頓堀に竹本座を開いたのは1684年(貞享元)。
翌年から近松門左衛門と組み、数多くの人形浄瑠璃を世に出した。

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